
教育職員の利用者募集!
2023年4月30日(日)までの期間、苫小牧市内の教育職員限定で、苫小牧市表町にあるコワーキングスペースとまこまいベースを無料でご利用くださる方を募集します。
詳細は下記の通りです。
実証実験にご賛同いただける方
苫小牧市内にお勤めの教育職員
苫小牧市表町にある、とまこまいベースを無料利用
お申込み先着10名様に限る
とまこまいベースは、この様な施設です。
小規模事業者向けの共同事務所
24時間利用可能
駐車場有
スマートロックによるセキュリティ管理
オフィスではあるが、読書、資格取得、映画鑑賞など、趣味の謳歌や集中勉強にも利用可能
ご利用希望の方は、お手数ではございますが下記の「専用申込フォーム」からお申込みください。
教育職員とは
学校教育法(昭和二十二年法律第二十六号)第一条に定める小学校、中学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校及び幼稚園の教諭、助教諭、養護教諭、養護助教諭、栄養教諭及び講師をいう。
出典:文科省 資料3-2教育職員免許法における関係規定の一部抜粋
教員無料利用の目的
教員のためのサードプレイスとして、コワーキングスペースとまこまいベースの無料使用サービスを提供します。「家でも職場でもない第三の居心地良い場所=サードプレイス」を提供するサービス事業として、仮説検証を目的とした実証実験です。

実証実験の経緯
昨年12月に開催されたStartup Weekend苫小牧のビジネスプランピッチ大会で優勝したチームリーダー藤田哲郎氏(以下テツ)率いる7人、チーム名=スマイル、テーマ=教員の悩み解決。テツさん自身苫小牧市内で現役教員であり、自らの悩みを解決したいというものだ。長時間労働、責任、模範者であるべきという過度なストレスを感じていて、根本原因となる課題は”人の目”であると結論づけた。その課題解決するには、どうすれば良いか?が、スマイルチームの事業プランである。
サードプレイスとは?
Oldenburg(1989)が提唱した概念であり、家庭(第1の場)でも職場(第2の場)でもない第3のインフォーマルな公共生活の場、すなわちとびきり居心地よい場所を意味する。もともとはアメリカの自動車依存型の都市社会において、潤いのある地域社会(コミュニティ)が消滅しているのではないかという問題意識によって、その必要性が主張されている。サードプレイスの代表例はイギリスのパブやフランスのカフェであるが、Oldenburg によればその重要な特徴は、中立性、社会的平等性の担保、会話が中心に存在すること、利便性があること、常連の存在、目立たないこと、遊び心があること、で示される。換言すれば、地域の中で目立たないが多くの人が気軽に利用でき、社会的地位を気にせず交流できることでなじみのある人間関係が構築できる場所、と言えよう。 出典:地域コミュニティにおけるサードプレイスの役割と効果
教員の為のサードプレイス
”人の目”を解決するには”人の目を避ける”が最適解ではあるが、社会で暮らす以上コソコソ生活する、引きこもる、誰とも会わない訳にはいかない。人の目が気にならず、居心地よい場所(環境)を構築すれば良い。
この場所では、役職や肩書きによる上下関係はなく平等であること。
目的の有無に関わらず、その場所に居られること。
共感できる仲間と楽しむこと、単独で過ごすこと、自由に過ごせる場所であること。
他者に迷惑でないこと。
排他禁止。
上記のハウスルール秩序を管理できる責任者がいること。
課題=自分らしく居られる場所探し
サードプレイスという言葉は新しく感じるが、「自分らしく居られる場所」というのは古来から存在してきたであろう。例えば、お寺、祭り、町内会、サークル、ボランティア活動といったコミュニティであったり、最近では、オンラインゲーム、SNSなど。人によっては、誰が声かけしたわけでもない床屋に近所の住民が集まっていたり、毎日おばあちゃん達が集まるお茶会もそうであろう。
重要なのは「自分らしく居られる心地よい場所」であること。そして、そこでは強制されないことである。自分らしく居られる心地よい場所を見出すことは、人間の普遍的価値観ではないだろうか?というのが、本実証実験の目的です。
現職教員テツさんメッセージ

2022年12月6日(日)Startup Weekend苫小牧のビジネスプランピッチ大会優勝授賞式の際、テツさんは「”子供達の幸せ”が最優先事項であるのは当然でありますが、私たち先生の心身共に健康である事が子供達の幸せであると思っています。そして、”子供達のため”は当然であるが、それこそが自分で自分にストレスをかける呪縛です。」と語った。
弊コワーキングスペースは、テツさんに共感した一人です。いわゆる教員のブラック化は社会課題の一つであり、令和5年度から始まるとされる部活動地域移行も、課題解決策の一つであろう。国が、行政が、誰かがやるだろうではなく、自分達で出来ること始めることは至極当然の行動であると考える。